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updated 2024-05-05

上原一馬 2019年のブログ
UEHARA Kazuma's Blog


 

2019.12.28

Take E Lee 光源

 

 
Take E Leeというバンドのアルバム「光源」のアートワークに、絵が採用されることになった。
 
ホームページに載っている画像のどれかを、選ばせていただきたいということだった。
しばらくしてから、連絡のあった絵は、1997年の20年以上前のもの。
少し驚いた。
 
私が作品を描き始めてまだ間もない頃の絵だ。
 
この頃の私は、思考の堂々巡りの中にいた。
世の中の真実を知ろうと、役に立たないことを考えては、それを作品にしていた。
 
この作品もその一つで、「集束する空間」というタイトルだ。
 
未来が決まる時というのは、確かにある。
その直前までは、ちょうど粒子がバラバラにあるような感じで、まだ物事は確定していない。
それに形を作るのは、他でもない人間の意識だというのだ。
意識により、一つの空間の中で、ある形に未来が集束していく。
 
その状況を描いたのがこの絵だ。
 
アーティストのアルバムタイトルは「光源」。
この頃の自分は確かに、光を求めて、うごめいていた時期だったかもしれない。
 
時を超えて、かつての自分の感性が誰かとつながるという、不思議なできごとだった。

 

2019.12.21

宮下由夫 鬱積を繊細に

 

 
ホクト文化ホールで開催中の「QUEST」展へ。
 
宮下由夫さんから、ていねいな案内状をいただき、これは行かねばと思い、来館した。
 
宮下さんは、特に団体には所属せず、ずっとフリーで描いている。
その囚われない感じは、描かれる支持体にも表れている。
ペラペラの紙や、習作用のキャンバスボード、その辺にあるベニアなどに、イメージが広がる度に継ぎ足し継ぎ足し描かれている。
 
宮下さんは美しいものを描く。
風景、人物。
 しかし、できあがった作品は、決して美しいだけでは済まされない。
 
比率を測ってまで、精密に描かれるはずの美しい人物は、
最終的に完成させることはなく、筆で打ち壊されている。
 
美しいものに対する、憧憬、羨望、嫉妬心、
それらと同化できず、見つめているだけの自分自身に対する否定なのか。
 
美しいものを描こうとすればするほど、
美しさを求める心の中に潜む、相反する狂気が湧き上がる。
その感情をも画面の中に描く。
 
繊細さとは、もしかすると狂気と隣り合わせなのかもしれない。
(宮下さんはもちろん普通のかたです...)
 
今見つめているものと、自分の感情の中点に達したとき、
作品として完成するのではなく、
自分の中での昇華をもって完成としているのだろう。
 
そんな、一見未完成とも言える多数の作品群が並んでいた。
今後も作品は、しっかりと保存することもなく、また思考の山ができ上がって行くのでは、と思うと、妙にうれしい気持ちにもなった。

 

2019.10.06

木原正徳 呼吸するように描く

 
木原正徳

 
「木原正徳 ひとかたちー野に還るー」を観に飯山市美術館へ。
 
飯山といえば、今年長野県代表として甲子園出場を決めた飯山高校。
「雪国から甲子園へ」というキャッチフレーズが踊った。
 
すごく遠いイメージを持ってしまっていたが、佐久から1時間半で到着した。
のどかな街並みを抜けると、意外にも近代的な美術館。
 
木原さんは同じ長野県出身ということもあって、お会いしたこともあった。
 
作品との出会いは同じコンクールに出品したことから。
 画集の絵は、にくいほど輝いて見えた。
 
画面を走らせるスピード感のある筆さばき。
明るく活発な色彩。
 
臆病に描いていた自分の絵に比べ、
すごく自由に思えた。
 
大規模な個展とあっては見に行くのは当然の行動だった。
 
印象としては、以前の勢いはそのまま、
洗練された絵画になっているという感じがした。
 
勢いは死んではいない。
しかし、筆さばきが様々なヴァリエーション整理されていて、
迷いなく、気持ち良く描いている様子が伝わってくる。
 
小作品の遊び心溢れる、ミクストメディアの作品群もにくい。
 
2周して、気に入った絵のポストカードを購入した。
 
「気持ち良く描く」。
今、自分に欠けているように思う感覚。
制作者のこの感覚とは、表現にどうつながるのだろう。
そんなことを考えながら帰路についた。

 

2019.09.06

防犯ポスター審査 子どもが感じる恐ろしさとは

 
防犯ポスター

 
小・中学生の夏休み、美術の宿題と言えば「防犯ポスター」「選挙ポスター」。
 
今日は、子ども達が夏休みに苦労して制作した「防犯ポスター」の審査員として呼ばれた。
 
犯罪に対する子どものイメージが、描かれている。
例えば、「特殊詐偽」に対する電話の向こう側の犯人のイメージ。
「薬物」に汚染された人が壊れていくイメージ。
 
子どもが事件のニュースから得た、恐怖感、不安。
その感情が描かれている。
恐怖や不安は、こんなにも興味深い絵を描かせるのか。
子どもが感じるその純粋さもグッとくるものがある。
 
床一面に広げられた作品に、付箋紙を貼り投票していく。
付箋紙の多いものから順に、審議し、賞が決められていく。
 
中には、ポスターとしてはふさわしくないが、絵には才能を感じる、そんな作品もあった。
当然、賞には選ばれないが、「お前はすごいぞ」と伝えたい気持ちだった。
 
これだけのポスターを描くのは、大変だったと思うが、
思い入れを持って努力した作品はやはり違う。
来年も頑張ってほしい。

 

2019.08.04

teamLab 闇と光の空間

 
teamLab

 
東京台場の「DIGITAL ART MUSEUM: teamLab Borderless」へ。
 
昨年の開館以来、ずっと行きたいと思っていたのだが、予約が取れず断念していた。
今回は、1か月前の予約でようやくチケットが取れた。
 
会場前には、すでに大行列。
予約しているのに、入る前にこんなに時間がかかるとは。
外国人の多さも目立った。
 
入った瞬間から、異空間。
非日常とは、このことだ。
四方八方の壁に映し出されるプロジェクションは動き、快い音楽が流れる。
 
会場は迷路のよう。
別世界に迷い込んだ錯覚だ。
 
プロジェクションに触ると反応するところもあり、とてもワクワクしながら楽しめる。
子ども達が映像を追いかけたり、自分の絵が動きだすワークショップで楽しんでいた姿が、印象的だった。
 
人気の理由もわかるし、もし自分が子どもだったら「teamLabに入りたい!」素直にそう思ったことだろう。
 
2時間ほど鑑賞したのだが、並んでいて観れないところもあったのが心残り。
 
時代の流れの中で、自分の制作しているような絵画とはどんな役割を持つのだろうということや、
自分が、このような映像作品や空間芸術を制作するとしたら、どんなものができるだろう、
そんなことを考えながら、会場を後にした。

 

2019.07.28

未来のミライ展 情熱と技術

 
未来のミライ展

 
上田市のサントミューゼで開催中の『サマーウォーズ』10周年記念 未来のミライ展~時を越える細田守の世界 へ。
 
宮崎駿に次ぐ、日本アニメーションの巨匠とも言われるようになった、細田守監督。
 
今回は、そのアニメーションの制作過程が観たくて、この展覧会へ。
 
複製の展示が多いのでは?と思っていたのだが、
線画や背景画の実物だらけ。
本物が観れることに、本当に幸せを感じた。
 
フレームのコマとなる線画は、実に伸びやかで気持ちの良い線。
細かな設定部分も描かれていて、これだけでドローイングの作品のような美しさだ。
 
背景画は、まあCGだろうと思っていたのだが、
目を凝らして見ると、まさかの手描き。
凹凸が全くないため、見間違えた。
ポスターカラーのこんな薄塗りで、ここまで想像の世界をリアルに描く技術力の高さに驚いた。
食いるように何度も近づいて観てしまった。
 
他にも、立体や体験コーナーなども。
作品づくりをしている人も、大人も子どもも楽しめる、充実した展覧会だと思う。

 

2019.06.15

芝 康弘 絵から伝わる光と温度

 
芝康弘

 
現在活躍する好きな日本画家の名前を挙げよと言われたら、数名しか思いつかないのだが、
その中でも私が好きな日本画家の一人は、 芝康弘だ。
 
彼の作品には、光に満ち溢れている。
そして、季節を感じるような温度感がある。
 
日常で、美しいと感じる風景の感覚が、そこには見事に表現されている。
 私は美しいと感じていたのは「ああ、この感じだ」そんな情景がそこにはある。
 
その風景の中に登場する、女性、子ども、草花。
 安らぎ、穏やかさ、爽やかさ、ノスタルジー。
忘れてしまいそうな感動が表現されている。
 
「心が晴れるような絵」一言で言うならそんな作品だ。
 
初夏の訪れ。
草木の緑の濃くなる頃。
 
日常の疲れの中で、ふと美しい風景に出くわすと、
なぜか、この芝康弘の絵を思い出してしまう。
 彼なら、この風景をどんな風に描くのだろうと。

 

2019.05.01

「ウィーン・モダン」展 確かにそこに芸術が咲いていた

 
クリムト

 
『ウィーン・モダン クリムト、シーレ 世紀末への道』展(国立新美術館)へ。
 
クリムト、シーレ。
私の大好きな作家達だ。
 
この二人の作家の作品を観るのは初めてだ。
 
クリムトの才能には、とにかく驚いた。
 
装飾的な絵画が有名だが、
ポスターや鉛筆に至るまで、すべてが素晴らしい。
 
鉛筆の一本の線にしても、
何とも心地よい、納得させられるものだ。
 
なるほど、クリムトとシーレは交流があったのか。
伝染する才能とはこういうことか。
 
シーレの油彩の筆圧もまた良い。
こんな人体の描き方があるとは。
 
この時代の作家達は自分で描くだけではない。
舞台芸術のポスターや、壁画などの装飾にも積極的に関わっている。
 
絵画とデザインの境界が、あってないような、
見事に融合された活動をしていたことにも、驚いた。
 
オーストリアがハプスブルク家の下で栄えていた頃、様々な文化が興隆していた。
ここから文化が生まれていくのだという、勢いのある空気感まで感じることができた。
 
確かに、街は美術・音楽、芸術に満たされていた。

 

2019.04.30

第93回 国展 2019 注目作品

 
マスナリ リョウコ

 
マスナリ リョウコ〈モリノホコリⅡ〉
 
今回、私の心をとらえた作品。
一人だけ感性が違う。
 
柔らかい風景だ。
夢の中に、絵本の世界の中に誘うような、空想の風景。
 
実に弱々しく、はかなげだ。
塗りの薄さといったら、繊細そのものだ。
 
この、繊細さから生み出される無限の空間。
とてもさわやかな癒し。
 
部屋にあったら、日常の癒しとなり、
ていねいに頑張ろう、そんな気持ちにさせてくれるような絵だと感じた。
 
 
山田美智子

 
山田美智子〈冬の河〉絵画部奨励賞
 
この寝そべる男性の存在感に見入ってしまった作品。
 
どこにでもいそうな男性が、普通の服を着ている。
寝そべっている地面もその辺にありそうだ。
 
この普通同士のありえない組み合わせを、
懸命な描写で、崇高な雰囲気にまで仕上げている。
 
男性の表情も、画面の色も決して主張するものではない。
ただ、確かに、そこに静かにいる。
 
止まった時間の中にいるように。
男性は永遠の存在であるかのように。
 
若い作家なのだろうか。
将来性をひしひしと感じさせた。
 
 
荻原優

 
荻原優〈パラージュの夢〉
 
この絵のセンスには、お手上げだった。
 
日常の人々の表情と、街の情景を、実にユーモラスにとらえている。
その一つ一つが、本当に面白く描かれている。
 
コスプレから、お化け、宇宙人まで、何でも登場する。
奇想天外な世界だ。
この人、絵が好きなんだろうな。
 
もっと良く見たいんですけど...
上の方で首が痛くなってしまったので、やめておいたが、
ずっとニヤニヤしながら楽しんで観ていたい、
そんな明るい絵だった。
 
 
この作家たちには大切なものをもらったように感じた。
感謝の気持ちでいっぱいだ。

 

2019.03.23

描かされる男

 
上原一馬アトリエ

 
制作も終盤に差し掛かる。
 
この段階になると感じることは、「絵に描かされてている」という錯覚だ。
 
最初は、自分がアイディアを考え、描き始めた絵だ。
 
しかしだんだんと、自分で描きに行くというより、絵に呼ばれて描きに行くような状態になる。
 
「ここを直してよ」「そっちをやったらこっちだよ」
 
おいおい、いつから、そんなに自己主張するようになったんだ?
 
仕方なく、今日もアトリエに向かう。
「今日眠いんですけど…」
そんな言い訳、お前は聞いてくれないよな…
 
いつから主従関係が逆転したんだ?
 
そんなことを言っているうちに制作は大詰めに向かう。
 
情けない従僕の最後のあがきだ。
「最後の一手はこっちで入れさせてもらうからな!」

 

2019.02.23

サンドルフィー 静かな叫び

 
サンドルフィー

 
サンドルフィ(Isvan Sandorfi)。ハンガリーの作家だ。
 
写実画家の中でもその画風は異彩。
 
緻密に、生々しく描かれる人物は、背景のブルーに溶け込み、怪しい光を放っている。
 
静かな世界に、男の叫びだけが響いてくるようだ。
 
人物はそこにいるかのように、存在感があるのだが、
その存在は遠い世界のように現実感がない。
 
ただ、その叫びだけが遠くから聞こえてくるのだ。
 
一瞬にして、その世界に引き込まれ、
異空間の居心地の悪さを味わうこととなる。
 
しかし、画面は清潔そのもので、なぜか美しいものに触れていたくなる。
 
その矛盾の中で、言葉では言い表せない人間の感情を共有したくなるのだ。
 
9月からは日本でもホキ美術館で、大規模な回顧展が開催予定だ。
 
言葉のない世界共通言語でサンドルフィーの絵は叫び続ける。

 

2019.01.26

村上早 生(せい)とは何か

 
村上早

 
サントミューゼ 上田市立美術館の『村上早展-gone girl-』へ。
 
この美術館主催の山本鼎版画大賞展の大賞を獲った時から気になっていた。
ボロボロの作品を出品してきた彼女は、美術館からの問い合わせに、
蚊の鳴くような声で申し訳なさそうに何度も謝っていたという。
 
作品はシンプル。
余計な要素は何もない。
ただ直感的な線が彫り込まれているのみだ。
 
しかし、その鮮烈な印象。
 
柔らかいフォルムとは裏腹に、
心の深い深いところに突き刺さってくる。
 
作品に隠されたテーマ性が、この心に響く要素になっているように思えた。
 
どんな人物なのだろうと、美術館で映像を見ていて分かったこと。
 
彼女は幼少期に心臓の手術を受け、普通の子ができることを制限された中で生きてきたこと。
その偏見の苦しみとともに生きてきたのだろう。
 
実家は獣医で、いつも死と隣り合わせの中で、生活してきたこと。
「死」が日常にあるということが、彼女の「生」の意識に影響を与えたのだろう。
 
彼女の日常の感情が作品の中に現れる。
どんな悲しい過去も、日常の鬱積も、作品に昇華される。
 
制作なしでは生きられない本物の「作家」とは、こういう人物のことを言うのだろう。
 
こんなに単純なのに、こんなにも新しい。
大賞受賞も、うなずける。