上原一馬 2024年のブログ
UEHARA Kazuma's Blog
2024.09.15
牧野一泉 大地の躍動に触れる


牧野一泉(まきのかずみ)さんは、地元長野県佐久市出身の作家であるそうだが、今回の大規模な展覧会まで、その名前を知らなかった。
仲間の勧めで半信半疑で訪れたこの展覧会だったが、本当に来てよかった。
心揺さぶられる作品群に感銘を受けた。
牧野さんは創画展で日本画を発表しているとのことだが、
画面は日本画とは言えないほどの荒々しさだ。
おそらく床に平置きしたパネルに、どっぷりと絵具が塗られている。
1〜2cm出っぱっているのでは、という盛り上げ方だ。
土のような砂のようなマットな質感と赤い色面からは、「大地」を想像する。
大地の奥底でうごめくような地球や生命の動き。
何も描かれていないが、大きな命の躍動を感じる。
このまま自分自身も絵に溶け込んでしまうような。
焼き板などもコラージュされているが、
意図しない自然が作り出す形の快いリズムを感じる。
すべてが、身体と大地に直結していて、まるで自然と人間が融合していくようだ。
お勧めしてくれた仲間には、感謝しかない。
2024.08.17
谷原菜摘子 ぞっとする夢の触覚に触れる

「完璧な結婚」谷原菜摘子
数年前に谷原菜摘子さんの作品と出会ったのだが、ずっと頭から離れずにいる。
お盆に実家に帰るとなぜか、彼女の絵をことを思い出してしまう。
結婚をテーマにした谷原さんの作品は何点かあるのだが、幸福な花嫁の笑顔とは裏腹に、画面は奇妙な雰囲気に包まれている。
花嫁のウエディングドレス執拗なまでに丁寧に描き込まれ、完璧な美しさだ。
だが、その相手の男性は実に陳腐なハリボテのように描かれている。
祝いのウエディングケーキは、美しいデコレーションを施しているように見えて、魚のヒレなど不気味な装飾に変わっている。
谷原菜摘子さんは、自分の見た夢から発想を得ているそうだ。
「なんでこんな夢を見たのだろう」という悪い目覚め。
もしかすると、その中に人の感情の本質が隠されているのかもしれない。
また、谷原さんは作品制作の前にオリジナルの物語を作るそうだ。
この絵には、奇妙などんな物語が隠されているのだろう。
一度見たら忘れられない絵。
忘れられない奇妙な夢。
そこには何か共通点があるような気がする。
2024.05.25
桶田洋明・高柳剛士 二人展 人物と風景の共鳴
桶田洋明さんと高柳剛士さんの二人展を観に小諸高原美術館へ。
二人とも私の知り合いということもあり、お会いできることも楽しみに会場で出かけた。
最初の小作品のスペースから、100号サイズの大作まで二人の過去から現在までの作品が数多く展示されていた。

「時を綴る」桶田洋明
桶田洋明さんの作品。
近年の作品は実物で見ることがなかったが、とにかく絵肌が美しい。
アクリルや油彩、テンペラまでを画材として使用し、ていねいに描き込まれている。
20cmの距離まで近づいても、隙なく緻密な描き込みだ。
風景は現地取材により資料を収集し、人物はモデルを依頼して描く、徹底ぶり。
こうして現れてくる美しい人物像は、森の中に迷い込んだ物語の世界を思わせる。
何度観ても見飽きない作品だ。

「参道」高柳剛士
高柳剛士さんの作品の中で最も印象的だった作品。
地元地域の風景を描いている。
寺院へと続く参道を描いているのだが、深緑の美しさと木の影が、実に美しく描かれている。
気温や風まで伝わってくる感じがする。
美しい風景を見ると、それを絵に残したくなる。写真ではなく、自分のフィルターを通した印象を含めて。そんな衝動や純粋な思いが伝わってくる作品だ。

左 桶田洋明さん・右 高柳剛士さん
この日はギャラリートークも行われた。
二人の作品の制作方法を、画像を交えてていねいに解説してくれた。
参考になったは、下地の施し方。
桶田さんは、人物の下にブルー系の下地。
高柳さんは、風景の下にピンクの下地を塗るのだという。
反対の色を塗ることで深みを出している。
長年の思考錯誤から生まれた作品の表だけみても分からないこだわりの工夫を聞くことができた。
この日はイベント会場は満員で、鑑賞者たちは皆、作品について語りながら初夏の穏やかな時間を美術館で過ごしていた。
2024.05.03
MUCA展 現代社会とアートの狭間

「少女と風船」バンクシー
六本木・森アーツセンターギャラリーで開催中の「MUCA展」へ。
バンクシーやカウズなど、今を時めく現代アーティスト達の作品が集まった。
もっとも刺激的な作品は、バンクシーのシュレッダーの作品。
オークションで作品がシュレッダーにかけられ、消失しかけた世界に衝撃を与えた作品だ。
まさか本物を見られるとは思わなかった。
厳重な警備の中、作品に近いところまで行くことができた。

「消失シリーズ#14」ヴィルズ
最も印象に残った作品は、ヴィルズの作品。
木製の古びた扉に人物の顔が描かれている。
近づいてみると、電動ドリルで点描的に彫られることで、この作品は作られている。
扉に刻まれた大顔面の表情。
扉の向こうに閉じ込められた人物が、何かを訴えてくるかのようだ。
ヴィルズは物質の中に、人物像を刻み込み、一瞬の表情を永遠のものとして定着させる。
移りゆく現代社会の中に流されながらも、必死で生き抜く人々の姿。
埋もれていく人々の、まるで叫び声が聞こえるかのような作品だった。
2024.04.30
第98回 国展

今年の国展から、ようやく各種イベントも通常開催となった。
出品者懇親会は4年ぶり。
作品は知っていても、作家の顔までは分からない状態から、作家同士の交流が戻ってきたことがうれしい。
意外と名刺を持っていない作家が多かったことも、久々なことの影響なのだろうか。それともスマホで読み込めば済むようになってきた流れなのだろうか。
私が注目したのは次の作家たちだ。

「こまったな?」福島和子
日常で頭の中にひっかかってくる困りごと。その刺激は様々。
日々混沌とからまり合い、残されたり解決したりして、時間は自分自身を連れて未来へと進む。
その、脳内を描いているような作品。
暗い表現にならず、坦々と受け止め、やさしい柔らかな色彩で、ユーモラスに表現しているところがいい。
自分自身の脳内に起こることを、おもしろおかしく客観視しているような第三者的視点。
個人的な思いを、共感のレベルまで表現しきっている。
実に興味深い作品だと感じた。

「ばあちゃんの葬式」高橋英夫
誰もが経験する家族の死。
そしてそこで執り行われる、非日常の催事。
それは不思議な空間と時間だ。
悲しくて仕方ないはずなのに、親戚が久々に集まるまたとないひとときでもある。
そこで感じたものを俯瞰的に、細部まで描いている。
記憶の葬式の風景だ。
葬式の風景というタブーを、これほどのどかな安らぎの情景としてよく描いたということに、本当に関心してしまった。

「奮」菅原瑶子
闇から口を開けこちらに向かってくるような魚の姿。
私自身は鯉の餌付けの際、その姿に少し怖さも感じる。
その視覚的、触覚的、生命感の怖さ。
そこに生の根源を感じることもある。
そんな視覚記憶の一片を見事に描き切っている作品。
ニスのような透明な画材も使用し、画面により深さを感じさせている。
感じたものの共通項をつなぎ合わせ、一つの空間の中にある感情の瞬間を閉じ込めた、すごい表現だ。

「skin painting」夢周周
発想は日常で出会うものたち、風景。
それを作家のフィルターで再構成し、不思議な感覚世界に連れていく。
ユーモラスで穏やかありながら、感覚に染み入るよな、痛々しい刺激も感じる。
それはまるで、視覚的に見たものの再現ではなく、感覚として残ったものの再現のようだ。
同じものを見たとしても、感じることは一人一人違うのだろう。
そして残っていくものも。
色々なものを削ぎ落とし、その皮膚感覚だけを絵にしたような作品。
柔らかでこころよいのに、同時に痛いものに触ってしまったような、夢想的な表現だ。

「曖昧な相対」岩井美樹
新人企画展「新しい眼」長野県からの出品者。
ロールのようなものを広げて展示されたこの作品は当日、作家自身が組み上げて設置したのだという。
小さなドローイングや鏡まで貼り込まれている。
小さな円形の細胞のような描き込み、かと思うと筆で一気に描いたような墨の部分。
何も描かれていないが、人間の生命感を描いたような作品。
繊細に消えそうになりながらも、確かに増殖し生きている。
その営みは、いつの間にか画面を覆い尽くすような広がりになっている。
しかしそれは決して力強いものではなく、薄く石の表面に広がる苔のような美しさだ。
中には感情の起伏が大きな作品もあるが、小さな起伏を拾い上げてつなげてひろげていく、こんな作品もあるのだと、そんなことを思っていた。
2024.3.23
「ヨシタケシンスケ展かもしれない」純粋に ひたむきに

上田市サントミューゼで開催の、『ヨシタケシンスケ展かもしれない』へ。
まず私上原一馬は、ヨシタケシンスケが大好きなのである。
絵本を一度読んで、すぐに虜になってしまった。
特に好きなのは、
「このあとどうしちゃおう」
誰もが逃れられない死と、死後の世界への想像を、ユーモラスに描いた作品だ。
ヨシタケシンスケさんの作品を読むと、自分の悲観的妄想もそれでいいし、ものごとを楽しくとらえられるようになる気持ちになる。
単純な線で、でも可愛らしく、魅力的に描かれる絵も好きだ。
こんな風に飾らない描き方で、人々の心をとらえるイラストを描けるようになりたいと思うことがある。

展覧会でまず驚いたのは、普段持ち歩いているというスケッチブックの絵の量。
気になったものや思いついたことを描いているものなのだが、すごい量だ。
普段から手を動かし、アイディアを常に吸収しようとする姿勢に心を打たれた。

次に作品のアイディアスケッチの展示。
ヨシタケ作品の創作過程を見ることができる。
推敲の過程の積み上げがすごい。
思いつきは純粋でありながら、なぜ自分はそう思ったのかという掘り下げを行う様子、広げては絞り込むその過程は、ここでしか見れないまさに貴重なものだった。

学生時代の作品も見ることができた。
立体作品を主に制作していたようだが、妄想的に発想したものを形にしていく、その情熱と粘り強さを感じられる。
ものづくりが本当に好きな人なのだと、心から感じた。

ヨシタケさんらしいメッセージも随所に散りばめられていて、
最後は、
もしもみらいになにかよくないことがおこっても、
そのときあなたは、すっごくいいことをおもいつくかもしれない。
そんな言葉で締めくくられていた。
このやさしいイラストと励まされる言葉が、ヨシタケシンスケさんの魅力なのだという気がした。
2024.2.18
「上田クロニクル」こうして美術が根づいた

「自画像」山本鼎
上田市サントミューゼで開催の、長野県の上田小県地域の美術史をテーマにした展覧会へ。
まずは、「農民美術運動」の主導者であった山本鼎やその関連の作品群。
美術を知らなかった多くの人々があつまり、農民美術によって作品を作る喜びを得た時代。
どんな雰囲気があったのだろうと思いをめぐらす。
「児童自由画教育運動」では、臨画から、観察により感じたことを描く今の美術の基礎へと移行したきっかけを作った山本鼎。
講演会の写真が展示されているが、その時人々の心をとらえた彼の言葉とはどんなものだったのだろう。

「春陽会会員の面々」
東北信地方は、春陽会の活動が美術を支えてきた歴史がある。
山本鼎、小山敬三、石井鶴三、中川一政らが一同に集まるこの貴重な一枚の写真は、熱かった当時の作家たちの空気まで感じられる。

「鹿苑会指導風景」「岡鹿之助を囲んで」
春陽会の作家で当時人気があり、後進の指導にも熱心だった岡鹿之助の講習会、「鹿苑会」の様子の写真も残されていた。
岡鹿之助の指導が受けられる講習会がある、ということで人々が集まり、知らなかった美術の世界に人々が魅了された。
厚塗りであるがカラッとした岡鹿之助の美しい画面、その作品への憧れと考え方の秘密を知るために、この講習会に人々は足を運んだ。

「樹間」沓掛利通

「白い椅子」矢杉京子
さらに現代までの作家の作品群。
近代から現代までの美術作品の変遷を感じることができる。
最後は、米津福祐先生と小池悟先生の作品で閉じられていた。
それぞれの時代に、熱い美術のうねりがあり、その熱の中心部分がこの長野県の東北信地域にあった。
僕らもまた知らぬうちにその影響を受け、今を描き、何かの流れの中にいるのだろうかと、この展覧会を観ながら思っていた。
2024.1.28
令和5年度 東京藝術大学 卒業・修了作品展

最後に東京芸大卒制を見に行ったのは4年前だろうか。
コロナになって、毎年楽しみにしていたこの卒制も行けなくなり、だいぶ久しぶりな気がする。
ようやく卒制も通常が戻ってきた。
しばらく行っていなかったので、東京都美術館と芸大構内どこにどんな展示があるか、マップで調べながら行くことになった。
会場には、すさまじい人の入り。
日程的に休日が今日だけということもあり、コロナ前より明らかに人が多い。
美術展の活気と作品のエネルギーを感じる。

「風唄う」原澤亨輔
日本画の大作。たくさんの風鈴が、印象的な作品だ。
よく見るとダルマなど和風のものや、ガラス瓶や陶器など清涼感を表すものが描かれていて、日本の夏の爽やかな風を感じる。
色合いはモノトーンに近く、ブルーやエンジの差し色を使用している。
色合いの中に描かれたものが溶け込んだような描き方で、この描き方が爽やかで幻想的な世界を作り上げている。
音や風、この絵から風鈴の音が聞こえ、吹き抜けていく風を一瞬感じた。
絵から五感につながるものを想起させた作品だったので、忘れられなかった。

「川の底の愛が頭の上に来るかもしれない」上川桂南恵
巨大な、圧倒的な作品。
得体のしれない、フジツボのような細胞のような、あやしげな円形の生命体で埋めつくされている。
繰り返される描画で、かなり絵具は盛り上がっている。
ダンマル樹脂のような透明な画溶液で描かれ、ツヤのある透明層を何層も重ねて描画されている。
何を描いているか分からないのに、執拗に描かれたこの絵のパワー。
不気味なうごめきと対照的に、とことん美しい画面。
人間の本能を刺激し、体にぞわぞわと入り込んでくるようだ。
この絵も近くで見ようとする人がたくさんいて、じっくりとは鑑賞できなかったが、もう一度見てみたいと思う作品だった。